「飛(と)び漫荼羅(まんだら)」に関する一考察

                                    2005年5月3日    彰往考来(しょうおうこうらい)

1.はじめに
仙台仏眼寺(ぶつげんじ)には文永5年10月13日に図顕されたとされる「飛び漫荼羅」と称する御本尊が所蔵されている。この御本尊は花押のみが日蓮大聖人の筆で他は日興上人の筆とされていて、堀日亨(にちこう)師の『富士宗学要集 第八巻 史料類聚〔1〕』には「弘安式にして日興上人の筆に大聖人が華押を為されたるもの、曾つて寛永十三年染師町に仏眼寺が在りし時近火に罹り此本尊自ら飛び去りて類焼を免れたるを以て「飛び漫荼羅」と称し伊達家の貴重する所と云云」1)とある。つまり「飛び漫荼羅」の由来は近火の際にこの御本尊が自ら飛び去って類焼を免れたという伝説による。本稿の目的はこの「飛び漫荼羅」に関する資料を精査し、「飛び漫荼羅」が偽筆御本尊であることを論証して偽作の基になった原本の御本尊を探し出し、偽作された理由を解き明かすことにある。
なぜ「飛び漫荼羅」が偽作されたのかという疑問の答えを探すと、富士宗門史の意外な面が浮かび上がる。

〔凡 例〕
・ 「漫荼羅」は「曼荼羅」とも「曼陀羅」とも記すが本稿では引用文献以外は「漫荼羅」で統一した。また「飛漫荼羅」と " び " を省略して書く場合があるが、引用文献以外は「飛び漫荼羅」で統一した。
・ 「仏眼寺」と「佛眼寺」も同様に、引用文献以外は「仏眼寺」で統一した。
・ 興師御本尊は『日興上人御本尊集』(平成8年、興風談所)を用い、御本尊番号はNo.○○とした。
・ 蓮祖御本尊は『御本尊集目録』(平成2年訂補4版、立正安国会)を用い、図版の明らかな127幅から取り上げ、御本尊番号は安○○とした。
・ 「菩薩」の略字は"草冠にサ"であるが、パソコンのフォントに当該字体がないので「井」を使用した。

2.「飛び漫荼羅」の由来
 「飛び漫荼羅」の由来に関して『仙台市史 第六巻』に下記の記載がある。 "日蓮上人"など原文のママである。

「  飛曼荼羅    荒町
荒町の佛眼寺は日蓮宗富士派の寺で日尊上人の開山である。この寺の寶物に日蓮上人の文永五年十月十三日と記した眞蹟の曼荼羅がある。元来この寺は代々伊達家に共をして来た寺で、岩出山から仙臺に移つた當時は、北目町に在つたということで、蔵がなかったところから曼荼羅が火難に遭うことを恐れ、檀家であった國分町の富商中野某の土蔵に預けてあつた。ところが正保四年四月十二日の晝、川内から出火して城下千五百七十五戸を焼失した大火が起り、寺僧たちは中野の土蔵に駆着けて必死に曼荼羅を取り出して避難した。やれ一安堵と一同蓋をあけて見ると、狼狽して取り出したと見え、別な箱であつた。その時、もう中野の土蔵は燒落ちていたので住職以下失望落?、茫然たるばかりであつた。
この火災の最中二ノ丸の枝に何やら引ツかゝつているものがあつた。番士がはずして見ると見事な曼荼羅で、佛眼寺の重寶であることが直ぐ分り、家老の山口内記からこの事を二代忠宗に注進した。忠宗は、このような火難免れがたく感じて當城に納まるように飛來したものであろうから、返さずに蔵に納めて置くよう言いつけ、立派な表装になおして伊達家に保管されるようになつた。寺の方へは必要あらばいつにても下げ渡す旨申入があり、以後會式のたびに城中から曼荼羅を迎えて來る慣例となつた。(御府内珍集記)」2)
また、仏眼寺に関して『仙台市史 第七巻』に下記の記載がある。

「  佛眼寺 日蓮宗。富士大石寺末で、荒町にあり。法龍山と號する。康永二年(一、三四三)、伊達家第六世基宗(滿願時殿)、日蓮宗に歸依し、伊達郡佐々木邑に一寺を創建し、大石寺開山日興上人の弟子、京都要法寺開山日尊を講じてその開山とした。 「明治三年寺院由緒調に依れば「貞和の頃、日尊上人、奥州弘通の際、伊達郡の衆人の歸依に依つて七ヶ寺を建立したが、其内渡村に建立したのが佛眼寺である」と記している」 爾後伊達家の歸依厚く、仙臺藩祖政宗の代、同時の祈?に依つて大病本復の廉を以て増田將監、大塚左衛門を檀中に相附せられ、觀音堂後と稱する所に於て三千刈の地を寄附せられ、爾後、米澤・岩出山・仙臺と政宗に随つて移?し、岩出山では蛭川という所に寺を建て、仙臺移?の後は上染師町に置かれたが、寛永十三年(一、六三六)十月の大火で類焼、堂宇悉く鳥有に歸したので、同年十一月更めて現在の地を賜わり、堂宇を再建し、名取郡沖野邑(今仙臺市)に於いて二十五石余の寺領を附せられ、着座格に班せられた。開山當時から要法寺末であつたが、大正十三年以來要法寺派と大石寺派との間に正潤爭いが起り、約二十年間に亘り紛糾を重ねていたが、結局昭和十八年二月から富士大石寺派に属するに至つた。
(中略)
【寶 物】 文永五年(一二六八)十月、日蓮筆曼陀羅一幅、同書翰一幅(同曼陀羅は飛曼陀羅と稱し、正保四年=一、六四七=四月、忠宗の時代、故あつて葉城本丸に藏納めとなり、六月十一日付を以て佛眼寺に於いて入用の時は何時でも下渡すべき旨の家臣山口内記より佛眼寺宛の沙汰書があり、爾來三百年來、宗祖涅槃會(御會式)には毎年その下渡を仰いで開帳するのを例としていた)。其他文永十一年(一二七四)並に弘安三年(一二八○)日蓮筆、乾元二年(一三○三=嘉永元年並に正中二年(一三二五)日興筆、寶徳四年(一四五二=亨徳元年) 大石寺九代日有筆(以上三幅小野茂兵衛寄進)。大石寺歴代法主筆に成る曼陀羅三十一幅及び法華經一部八巻(傳、通稱高尾の所持、椙原家寄進)。同高尾所持の膳・椀一揃(椙原家寄進)等を寶物として秘藏する。(「飛曼陀羅の伝説」)。(後略)」3)

つまり、「飛び漫荼羅」が飛来したという伝説の仏眼寺火災の発生年は下記の二説あるということになる。
(1)正保4(1647)年4月12日
(2)寛永13(1636)年10月
『仙台市史 第六巻』では正保4(1647)年4月12日説だが、『仙台市史 第七巻』は正保4(1647)年4月に"故あって"として火災としての記載はない。家臣(または家老)の山口内記が登場するのは同じだが、これは原典資料が同じであるからだろう。
仏眼寺は何度か火災に見舞われている。『奥人 第1号』(昭和37年)記載の仏眼寺明細誌4) によれば、
・寛永13(1636)年月日不詳 隣火の為回祿の災に羅り
・明和元(1764)年2月13日  類焼(中略)鳥有に属す
・文政5(1822)年2月26日  当寺難遁之大火災 (注:火災は免れた)
・弘化4(1847)年2月1日   深夜放火宝器当宇皆倶に灰滅す
と、仏眼寺明細誌には4回の火災が記録されているが、正保4年の火災は見当たらない。そのためか堀日亨師も上記『富士宗学要集 第八巻 史料類聚〔1〕』の記載にあるように寛永13年説である。ところが、『奥人 第1号』(昭和37年)記載の仏眼寺明細誌4) には以下の天和2(1682)年と天和3(1683)年の漫荼羅の修復記事がある。

「 一、御漫荼羅様御修覆之警護人は奥村瑞庵と云う
    天和二戌年十二月三日
一、御漫荼羅様表具出来候刻御城へ御預り御蔵入書翰。御状拝見仕候如仰漫荼羅表具出来羅下し見事成義中々可申様無之候何時に而茂入申候は可被仰遺候大事之什物に候間常には御蔵に指置候様にと御意に候間左様御心得可成候恐々謹言尚々入申候時分は無御気遣幾度も可仰候以上
天和三年六月十一日      山口内記
仏眼寺様  」4)

この記録で山口内記という人物が出てくるところが 『仙台市史 第六巻・第七巻』 の記載内容と一致する。従って、ここでいう御漫荼羅は「飛び漫荼羅」をさすと考えてよいだろう。注目すべきは『仙台市史 第七巻』 の「六月十一日付を以て佛眼寺に於いて入用の時は何時でも下渡すべき旨の家臣山口内記より佛眼寺宛の沙汰書があり」との件(くだり)である。仏眼寺明細誌では「天和三年六月十一日 山口内記」(下線は引用者)とあるのである。つまり、『仙台市史 第七巻』 でいう「六月十一日付…沙汰書」とは天和3年の記録であろう。そうすると「飛び漫荼羅」が世に現れたのは仏眼寺明細誌の漫荼羅の修復記事から天和2(1682)年ではないかという仮説を立てることができる。 そうだとすると「飛び漫荼羅」は火災の後、約40年を経て出現したことになる。つまるところ、火事で漫荼羅が飛来したというのは単なる伝説で後世に作成された縁起の類にすぎないといえる。
この縁起でも「飛び漫荼羅」は火災のあと木の枝に引っかかっていたわけで誰も飛んでいるところを見たわけではないのである。

3.「飛び漫荼羅」の相貌と真偽判定
 「飛び漫荼羅」は管見に入ったところでは、『富士宗學要集 史料類聚別巻』(昭和17年、雪山書房)と 『御本尊集 奉蔵於奥法寶』 (平成12年覆刻版、日目上人奉賛会) に写真公開されている。以下、『富士宗學要集 史料類聚別巻』 を「要集本」、『御本尊集 奉蔵於奥法寶』 を「奥宝本」と略す。
「奥宝本」には寸法の記載があり、「堅九三・五糎  幅五○・○糎」とある。また「要集本」には「二十三歳佛眼寺蔵」とあるが、この二十三歳とは日興上人が寛元4(1246)年生まれ5)であり、「飛び漫荼羅」が文永5年の図顕とされていることから堀日亨師が換算された日興上人の御年である。このためか、堀日亨師は、『富士日興上人詳伝』に、「飛曼荼羅(とびまんだら)(中略)は、三枚続き、全面興師の壮年時代の筆法、年代が文永五年十月十三日とあるの相応するが、書式はまったく弘安年度のでありて、日蓮の名は興師御筆で花押だけが蓮祖のであり、荒町より青葉城内に飛んで火難を避けたというよりも、大いに不可思議な御本尊であるが、ここには早くより座側にありては代筆をも勤められたことの証左にならぬでもない」6) と記載しているが、これはおかしい。精師の「家中抄」にも、「同(引用者注:弘安)三年に一百六箇血脈抄を以って日興に授与し給ふ、剰ひ(剰え7)」此ノ書の相伝整束して日興に伝ふ、亦本尊の大事口伝あり是レを本尊七箇口決と申すなり、是の故に師に代りて本尊を書写し給ふ事亦多し 日興書写の本尊に大聖人御判を加へ給へるあり奥州仙台仏眼寺霊宝其証なり」8) とあるが、弘安3年に蓮祖から興師へ本尊の口決相伝があり、御本尊の代筆を興師がしていたという証左には "文永5年"の「飛び漫荼羅」はなり得ないし、師に代りて本尊を書写し給ふ事亦多しという事を証明する弘安期の御本尊は存在しないのである。堀日亨師は本気で「飛び漫荼羅」を御真筆と思っていたのだろうか? そうであるなら堀師の鑑識眼には疑問符がつく。
 では、「飛び漫荼羅」の写真と筆者による配座解読図を合わせて示す。「要集本」の写真はやや不鮮明なので、ここでは「奥宝本」の写真を引用する。
 tobi.gif
残念ながら、この「飛び漫荼羅」は偽筆であると考える。石山(富士大石寺)でも二十六世日寛師は「飛び漫荼羅」について疑義をもっていた。寛師の観心本尊抄講義を筆録した日相師の「観心本尊抄首日相聞書」には、「覚応私に云く (中略) 仙台仏眼寺の重宝に文永五年十月十三日の御本尊有り、卅余年と云云。別座仰せに云く、仏眼寺の本尊は不審也云云。」9) とある。すなわち、覚応(日相師)が個人的にお尋ねした所、寛師は別途、仏眼寺の本尊は不審である、と仰ったという内容である。寛師が「飛び漫荼羅」を疑問視していたとう内容は興味深い。

本稿で「飛び漫荼羅」を偽筆とする主な根拠は、下記5点で

@弘安期の書式でありながら、文永の日付である
A日付が十月十三日である
B文永5年でありながら、「佛滅度後二千二百三十余年」とある
C花押に勢いがなく、かつ文永期ではなく弘安期の書き方に類似している
D日蓮と花押が結合していなくて首題の南無妙法蓮華経と縦一筋になっている蓮祖御本尊の例はない

というところである。簡単に偽筆と判断される点を解説すると、

@は松本佐一郎氏の 『富士門徒の沿革と教義』 に、「多くの偽作妙曼は広く知られた弘安年間の形式又はその変形によったものである」10) とあり、さらに「文永の日付に弘安の筆法、弘安の日付に文永の筆法あるもので、詳細な分析を俟たずして偽筆と断じ得る」11) と指摘しているとおりである。
 
Aは、いうまでもなく蓮祖の正忌日である。堀日亨編 『富士宗学要集 第八巻 史料類聚〔1〕』 の漫荼羅脇書等12) によれば、この日に書写された御本尊は、興師、目師、道師、時師、影師にみられるが何故か有師以後の人師にはみられない。後世の日蓮宗徒には重要な日であるが、蓮祖ご在世当時は特別な日ではない。ただこのことは「飛び漫荼羅」が十月十三日付けの興師御本尊を下書きに作成されたことを示唆する。
 
Bは山中喜八氏が、「「二千二百二十余年」と「二千二百三十余年」の関係については、文永十二年卯月の五幅に、すでに「三十余年」が用いられてあるが、建治年間には悉く「二十余年」としたまい、弘安に入っても両者を併用されて、もっぱら「三十余年」を用いたまえるは同年八月以降に属する」13) と指摘しているように文永5年御図顕で「三十余年」とあるのは疑義がある。
 
Cは花押の左上の空点が渦を巻いた蕨手(わらびて)(warabite.gif)となっているが、このような小さい蕨手は蓮祖御本尊127幅中例がないし、花押もボロン字(boron.gif)とは云い難い筆跡である。蕨手は弘安期の特徴であり、文永期であるなら鍵手(かぎて)(kagite.gif)のはずである。
 
Dも同様で、蓮祖御本尊における首題(南無妙法蓮華経)および御自署(日蓮)と花押との連携では、このような形式(日蓮と花押が結合していなくて首題の南無妙法蓮華経と縦一筋になっている)は蓮祖御本尊127幅中例がない。

以上のことから、「飛び漫荼羅」は偽筆であると判断する。

4.「飛び漫荼羅」の特徴と原本探索
 「飛び漫荼羅」の原本を探る上で何点か鍵となる特徴があるので、それらを列記してみよう。いうまでもなく原本探索は、「飛び漫荼羅」が興師の御本尊を基に偽作されたとの前提で成り立つものである。

@不動明王と愛染明王が通常と逆でいわゆる"左不動"である
A龍王女が配座している
B先師の配座は天台、龍樹、妙楽、伝教の4人である
C日付が十月十三日である
D慶賛文が文句記四の「有供養者……頭破七分」ならびに依憑集の「謗者開罪……於安明」である

これらの特徴と合致する興師御本尊と蓮祖御本尊を列記してみる。
まず@であるが、左不動であることは極めて特徴的である。蓮祖御本尊では、文永9年の安2(京都妙蓮寺蔵)と弘安2年の安60(桑名寿量寺蔵)の2幅しかない。興師御本尊ではNo.7(宮城上行寺蔵)の1幅しかない。
Aの龍王女の配座はこれも極めて異例で、蓮祖御本尊では安60のみであり、興師御本尊ではNo.6とNo.7の2幅にすぎない。
Bの先師であるが、興師御本尊は、天親菩薩の配座が多く、天台、龍樹、妙楽、伝教の4人であるのはNo.6,7,11,41,46の5幅である。逆に蓮祖御本尊では天台、龍樹、妙楽、伝教の4人であるのは一般的である。
Cの正忌日では、当然ながら蓮祖御本尊には10月13日付けは見当たらず、興師御本尊ではNo.6とNo.7など44幅にみられる。14)
Dの慶賛文は、『日興上人御本尊集』15)によれば興師の御本尊では12種類に分類され、向かって右に「若脳乱… 有供養… 」、向かって左に「讃者積… 謗者開… 」となっているのは、『日興上人御本尊集』の分類では3型であり、No,6,7,9,14の4幅である。参考までに蓮祖御本尊では同様の慶賛文があるのは127幅中5幅にすぎず、5幅のうち3型は安60、61、67の3幅である。このうち安60は位置が若干異なるが余白の関係のようで3型の変形といえよう。残りの2幅である安53、54は向かって右に「有供養… 謗者開… 」、向かって左に「若脳乱… 讃者積… 」となっていて『日興上人御本尊集』でいう2型に分類されるので型式が異なる。

以上のことから、「飛び漫荼羅」と興師御本尊No.7および蓮祖御本尊の安60は密接に関係していそうで興師御本尊No.6も近似している。少なくとも「飛び漫荼羅」の特徴として指摘した五項目とNo.7の特徴は完全に一致する。
菅原関道師は、「日興上人本尊の拝考と 『日興上人御本尊集』 補足」の注(27)に、
「現存する宗祖本尊の内<No.六○>は宗祖の他の本尊に見られない「龍王女」が在座する唯一の例である。日興上人の「龍王女」の在座もこのNo.6と次のNo.7のみであり、他の列衆も<No.六○>とNo.6・7は全同であるから、日興上人が宗祖の<No.六○>を書写された本尊がNo.6・7である可能性は濃厚と言えよう。その上、次の本尊No.7に関わることであるが、「不動」と「愛染」が通例の逆に記される宗祖本尊の二幅のうちの一幅が<No.六○>であるから、日興上人のNo.7が<No.六○>を書写された本尊である可能性は高い。なお、No.6・7が書写された正応四、五年は日興上人は在富士上野であったと考えられるから、同地の大石寺を法燈・血縁上から継がれる日目上人授与の<No.六○>を、日興上人が常々拝見されたであろうとの推測は容易である」16)

と興師御本尊No.7は蓮祖御本尊安60の書写である可能性が高いと指摘している。その興師御本尊No.7と「飛び漫荼羅」は極めて似ている。従って「飛び漫荼羅」は興師御本尊No.7を基に作成されたものであると考える。
「飛び漫荼羅」と興師御本尊No.6,7の写真を並べてみるとよく分かる。
tobikousihikaku.gif
比較してみると「飛び漫荼羅」が興師御本尊No. 7を写して作成されたのが一目瞭然であろう。もちろん十羅刹女や八幡大菩薩などの位置が若干ずれているが、これは模写の際における余白の都合と考えてよいだろう。同じ興師の御本尊No.6と比較すると八幡大菩薩などの位置が異なる上、興師御本尊No.6は左不動ではなく、かつ両明王の趣が異なるので興師御本尊No.7と「飛び漫荼羅」が極めて似ているのが再確認されよう。
参考までに、「飛び漫荼羅」と興師御本尊No.6, 7との御本尊偏差値を計算してみた。御本尊偏差値の決定は筆者が独自に考案したものである。ここで使用する"偏差"とは統計学で通常使用されるもので、基準値(または平均値)からの偏り(ズレ)を意味し偏差値はその値である。
まず基準となる御本尊を定め(ここでは、「飛び漫荼羅」)、比較対象の御本尊(ここでは興師御本尊No.6, 7)に観請された諸尊の偏差値を下記割付けに基づき決定する。次に偏差値の合計を求めて御本尊偏差値とし、その数値の大小をもって比較考証するという処方である。統計学的には試料数が20以上であればかなり信頼できる数値が得られる。宗祖の御本尊では諸尊の数が20以上はあるので分析対象になりうる。
御本尊偏差値では片側偏差を用いているので偏差値合計の数値が小さいほど基準とした御本尊に近く、全く同じであれば偏差値合計は0になる。逆に偏差値合計の値が大きいほど基準とした御本尊とかけ離れていることになる。経験的には偏差値合計が20以下であれば関連性について議論の対象には成り得るが、好ましくは10以下、さらに好ましくは5以下でなければ関連性があるとは言い難い。また20を越えると関連性は極めて薄い。
まずここでの偏差値の割付けは以下のとおりである。

偏差 0  … 基準と同一諸尊が同一側に配座
偏差0.5 … 基準と同一諸尊が反対側に配座
偏差1.0 … 表記の若干異なる諸尊が同一側に配座
偏差1.5 … 表記の若干異なる諸尊が反対側に配座
偏差2.0 … 表記の全く異なる諸尊が同一側に配座
偏差2.5 … 表記の全く異なる諸尊が反対側に配座
偏差3.0 … 基準に配座の諸尊がない、もしくは基準にない諸尊がある

ここで「表記の若干異なる」とは、"大"の有無、"南無"の有無、"等"の有無、"菩薩"と"并(草冠にサ)"の違いなどが該当する。また「表記の全く異なる」とは、"釈(しゃく)提桓因玉(だいかんいんのう)"と"帝釈天玉"や"大因陀羅玉"、"大増長天玉"と"大昆楼勒叉(びるろくしゃ)天玉"などが該当する。
これに基づき各諸尊の偏差値を決定する。例えば基準の御本尊に"釈提桓因玉"が向かって左に配座され対象の御本尊に"帝釈天玉"が向かって左に配座されていれば、表記の全く異なる諸尊が同一側に配座しているので偏差値は2.0となる。こうして求めた諸尊の偏差値を合計することにより比較対象御本尊の偏差値合計が求まる。但し、この偏差値はあくまで基準にした御本尊との偏差であって比較対象御本尊の絶対値ではない。基準の御本尊が変われば当然ながら偏差値合計も変わる。臨写御本尊のように一字一句まで同じであれば偏差値合計は0になるし、もし誤写があればその分偏差値が大きくなる。この作業は一見煩わしそうであるが、パソコンでエクセルのような表計算ソフトを用いて諸尊の配座表さえ作ってしまえば後の計算はそれほど苦にはならない。参考として、日弁師の御本尊と日弁師が授与された蓮祖御本尊である安63との分析結果を表―1に、蓮祖御本尊である安60(左不動)もしくは「飛び漫荼羅」と興師御本尊No.6及びNo.7との分析結果を表―2に示した。
さて、表−2に示した計算結果から、表−3に偏差値合計をまとめると、
表−3 各御本尊の偏差値合計

基準の御本尊 興師No.6御本尊 興師No.7御本尊
蓮祖 安60    3    5
飛び漫荼羅    6    4


となる。
この結果は、蓮祖の安60は興師御本尊No.6に近く、「飛び漫荼羅」は興師御本尊No.7に近いということを示している。興師御本尊No.6は左不動ではなく興師御本尊No.7が左不動であるにもかかわらず興師御本尊No.6のほうが蓮祖安60に近いのである。これは興師御本尊No.6が正安4(1291)年の書写であり、興師御本尊No.7が正安5(1292)年の書写であることに起因する。すなわち、より初期の興師御本尊が原本の蓮祖御本尊に偏差値合計が小さい = より近い書写である、という興師御本尊の一般的な傾向を示している。このことから、興師はお習字のお手本のように蓮祖御本尊を見ながら書写されていたのではないといえる。興師御本尊No.6は左不動を通常の右に不動、左に愛染という配置に直されているが、興師御本尊No.7では元の左不動に戻されている。この理由は不明であるが、当時すでに蓮祖安60が左不動である理由が不詳で、No.6ではいったん通常位置に直されたものの、やはり原本に忠実であるべきとの想いからNo.7では元に戻されたのではなかろうか。「飛び漫荼羅」が興師御本尊No.6より興師御本尊No.7に近いということが偏差値分析から証明できる。
 興師御本尊No.7の書写は正応5(1292)年であるから、日興上人は47歳であった。当時、人生五十年とすれば堀日亨師が『富士日興上人詳伝』でいうような "興師の壮年時代の筆法6) " とはとてもいえないと指摘できる。堀日亨師は「飛び漫荼羅」が文永5年とあることから23歳・・壮年時代の筆法、と考えたにすぎない。その程度のことであれば誰にでも言える。 堀日亨師は古文書を読めたのであろうが筆跡の鑑識についてはお粗末なもので信頼性に欠けると言わざるを得ない。
 「飛び漫荼羅」はNo.7を下書きにしているので首題の下、御自署の"日蓮"は興師の筆に似せてある。しかしこれは変だ。 もし、蓮祖が書き入れるなら御自署の"日蓮"と花押が蓮祖の筆であるはずである。 なぜなら、"日蓮"と花押は弘安期では完全に重なっているからだ。興師御本尊No.7の原本と考えられる蓮祖の安60(左不動の御本尊である)を見ればよくわかる。
an60.gif

「飛び漫荼羅」は、まず興師御本尊No.7の模写を作成し、No.7にある" 聖人御判 " を書かず、その位置に適当な蓮祖の花押を模して配置したという段取りで作成されたのであろう。原本のNo.7が正応5年10月13日付けなので、正応を文永に変更し10月13日付けを残したのであろう。建治は4年までしかないし、弘安5年10月13日は命日である。この10月13日を残したのが偽作者にとって致命的欠陥であった。どうせ偽作するなら他のもっともらしい日付にすれば発覚し難かったのに、と思うのは筆者だけであろうか。もっとも偽作者はどこかで必ず尻尾をだすものである。

5.「飛び漫荼羅」の偽作背景を探る
 なぜ「飛び漫荼羅」が偽作されたのか背景をさぐるのは難しい。偽作者は証拠を隠滅するもので背景など書き残しているはずがないからだ。そこで大胆な推測をお許し願おう。キーワードは"京都"である。
 仙台仏眼寺が京都要法寺の影響下にあったことは否定できないであろう。山川智応師は『本門本尊論』17) で、『妙宗先哲本尊鑑巻二』 に所収の『文永六年六月四日』 (「大法師日朗二之ヲ興フ、末法第一ノ行者也」)の御本尊、京都の要法寺に在る『文永九年太歳壬申正月元日』(「問答第一行戒智徳筆跡苻法沙門日興ニ之ヲ授興ス」)の御本尊、『妙宗先哲本尊鑑巻二』に所収の『文永十年
四月八日』 (「末法第一ノ行者阿闍梨日朗、苻法ノ身タルニ依テ本尊之ヲ授興ス」)の御本尊の本尊を上げ偽作であることを指摘した上で、「どうしても朗門との對抗的の造作でないかと疑はれる、研究を要する。」17)と尊門(京都要法寺)と朗門とで正純争いによる御本尊の偽作応酬があったのではないかと指摘している。
この資料は開目抄以前の本尊の図顕がないとするなど現実と異なる点はあるが全体としては、まあ的を得た考えと思われる。
朗門と尊門の偽筆御本尊を年代順に並べると交互に登場するという奇妙な点がある。
bunnei6.gif  bunnei10.gif
文永5年10月13日(仙台仏眼寺蔵)(日興上人の筆に大聖人が華押を為されたるもの)
文永6年6月4日(野尻亥十郎蔵)「大法師日朗ニ之ヲ興フ、末法第一ノ行者也」
文永9年正月元日(京都要法寺蔵)「問答第一行戒智徳筆蹟符法沙門日興受興之」
文永10年4月8日(塚原根本寺蔵)「末法第一ノ行者法印大阿闍梨日朗、符法ノ見タルニ依テ本尊之ヲ授興ス」
建治2年正月元日(京都要法寺蔵)「筆蹟符法沙門日興受興之」

 どうも京都で朗門と尊門が対立した結果、どんどん古い年代のものが偽作されていったのではないかと思える。どれも興師もしくは朗師が正統と主張する偽筆本尊である。
 この仮説でいう京都での朗門と尊門が対立とは何だったのであろうか。これも想像の域をでないかもしれないが、もう少し上記記載の偽筆御本尊の周辺を洗ってみよう。
 まず、文永十年の塚原山根本寺蔵御本尊に注目し少々考察してみたい。塚原根本寺のある佐渡は日興上人の布教を受け、「此頃の佐渡は富士門徒だった」18) とあるように初期は日興門流であった。しかしながら、身延の勢力が拡大するとともに日朗上人の伝説が広まったのである。田中圭一氏は 『日蓮聖人事蹟事典』 で佐渡に残る伝説について 「佐渡に多いのは配所の伝説である。特に注意を引くのは配所塚原についてである。佐渡では寛文の不受不施派弾圧事件よりあとは、根本寺の塚原だけが勢力をもっていることもお
もしろい。 (中略) 配流を許される段になると、日朗上人の活動が注目される。小木安隆寺の着岸伝説、畑野本光寺の赦免状を渡す場面、越後での布教伝説など、日蓮聖人のそばにつねにあった日興上人の伝説が全く残らずに、日朗上人の伝説がたくさんあるのは、こうした伝説が身延山久遠寺の勢力の拡大とともにひろまったことを思わせるものである。だから、伝説と史実とは本来別個のものとみるほうがよいのではないか、佐渡の場合でも日朗上人の遺物はなく、日興上人の曼荼羅が所々に伝存することからみると、史実についてはそうして遺物をたずねることも必要であろう」19) と指摘している。

 では塚原山根本寺の成立はいつであろうか。現在の塚原山根本寺は蓮祖御在世当時の成立ではなくかなり後世のものである。 『日蓮聖人事蹟事典』 によれば、「 根 本 寺  佐渡郡新穂村大野にある。日蓮聖人の配所塚原は根本寺とされる。しかし疑いがないわけではない。そのもっとも大きなものは、この地が中世にあっては坂本の日枝神社の荘園で、領主が土屋氏であること、したがって守護代本間六郎左衛門の守護所である波多(畑野町下畑熊野神社跡)からはるかに離れて、日蓮聖人書状にいう「十一月朔日に六郎左衛門が家の後塚原と申す」位置に全く符合しない。根本寺の地からは下畑の熊野はのぞむことはできない、などの理由からである。史実としての根本寺は天正十八年(引用者注:1590年)、京都妙覚寺の僧日典上人によって基礎を与えられた。『塚原誌』によると、日典上人は天正十八年、佐渡攻略の将、直江兼続の招きで佐渡に渡り、聖人の事跡の発見につとめた。彼の力によって、松ヶ崎の本行寺、塚原山根本寺、御松山実相寺、阿仏房妙宣寺がつぎつぎとできた。塚原にはじめて祖師堂をつくったのは、相川銀山の大山師備前遊白(夕白とも)で、慶長十二年(引用者注:1617年)のことであった。その頃寺は正教寺と称したが、その後、やはり銀山の大山師で新穂銀山を経営した味方但馬によって各種の施設がととのうことになった。さらに味方但馬は、正教時の日衍(えん)上人を教略に推して本寺妙覚寺をはなれ、身延の日遠上人をたより独立本山をつくりあげた。やがて寛文三年(引用者注:1663年)、不受不施派の乱以後は根本寺と改称し身延派であることも手伝って佐渡最大の法華宗寺院として根本寺を名乗った」20) (下線は引用者)とある。これらのことから、根本寺は当初京都妙覚寺の末寺であったが不受不施派の乱以後身延の傘下に入った事がわかる。もし、塚原根本寺と京都要法寺、両寺とも京都に縁があるのだが、の間で本家争いのような論争があり、この過程で上述の種々の偽筆御本尊が作成されたとすると、その偽作年代は日典により正教寺(根本寺の前身)が再興された天正18(1590)年から、「飛び漫荼羅」が表装された記録のある天和2(1682)年の間に特定できるのではないだろうか。佐渡の塚原根本寺であれば一往"日朗が符法"を受けた御本尊が存在しても不思議はないと考えたのであろう。ただ文永10年に日朗上人が佐渡にいたという史実はなく日朗上人としても飛んだ迷惑というところであろう。慶長18(1613)年には佐渡の新穂正教寺(後の根本寺)が一山独立の訴えを起こし末寺と主張する京都妙覚寺と争いをおこしている。21) この論争の中で正教寺側は「塚原はすでに天文年間に大成坊日成上人の手によって発見されたもので京都妙覚寺の日典の開山によるものではない (要旨)」22) と根も葉もないことを主張している。自分たちの保身のためには手段を選ばないという姿勢が現れていて興味深い。

 京都要法寺側はどうであろうか。確かな資料が少ないので推論となるが、不受不施論議をここで少々概観したい。受不受事件で要山(京都要法寺)の日(にっ)躰(たい)文書が残されていて『富士宗学要集 第八巻 史料類聚〔1〕』 の419頁に記載されている。堀日亨師は日躰文書を「祖滅三百五十年か」23) と寛永8(1631)年の文書としている。豊臣秀吉は文禄4(1595)年方広寺大仏供養会に各宗派の僧侶を大仏殿に招いて先祖の菩提を弔うべく法会への出仕を要請し、受不受をめぐり京都洛中の日蓮宗十六本山は分裂した。京都本満寺日重ら受不受は諦法供養の不受について、王侯除外論を標榜し時の権力に迎合する方針を示した。日躰文書では、「少しも諦法を受くるにはあらず」23) とか「大仏供養は・・・日性上人は出仕御無用の由日?に仰せられ候間一度も御出資御座無く候」23) とかあって分り難いが一見京都要法寺は大仏供養に出仕しなかったの如き書き方である。しかし相手は時の権力者である。もし出仕を拒めば京都要法寺第20世の日?(にっしゅう)上人は流罪であろう。事実、京都本覚寺の日奥上人は供養不受を主張し慶長5(1600)年、対馬へ流罪となっている。実際には京都要法寺から大仏供養に出仕しているのである。これは『頂妙寺文書』の「大佛出仕記録(文禄五年)」で明らかであり、京都要法寺から十三人の出仕が記録されていて大仏供養に参加していたのが確認できる。24) 慶長17(1612)年、正月5日、日奥は赦免となり洛中へ帰洛し不受不施論議が再燃、関東へ飛び火する。池上本門寺の日樹(にちじゅ)や中山法華経寺の日賢は不受不施を主張し、徳川幕府の権力を背景に受布施を主張する身延門流と激しく対立した。これは寛永7(1630)年2月21日の江戸城中における身池対論(しんちたいろん)(身延と池上の対論)となり、幕府により日奥ら不受不施派は流罪、追放され徹底的に弾圧されるのである。寛永7(1630)年の身池対論に形の上で勝利した身延の日暹(にっせん)は同年7月14日、富士五山(富士大石寺、重須(北山)本門寺、西山本門寺、小泉久遠寺、富士妙連寺)に受布施の義につき「国主御供養の旨身延の法理の如く御守り候や」25) と同心を迫っている。小林氏は、「これに対し寛永七年(一六三○)七月、富士五山は、容易に返事を出さず「国主の御恩は遁れ難いものだ」「御両所(日乾・日遠)の仰せを守れとの御状は確かに拝見した」「国主の寺領供養は謗施ではあるが ……」等々の本音としては拒否したいという思いを小出しにしながら、身延派へ対応している。 その後、寛永八年(一六三一)七月に、身延派が「仏法に対する供養の趣き京都諸寺問等何も相違無きの趣き申し来たり候、貴寺御同意候や」と身延への同心を強要しているのは、富士五山がいまだ承服していなかった証拠である。池上や中山・藻原が「地子・寺領は供養」との誓言を身延に提出している(正本身延山蔵)のとはきわめて対照的である。この間一年にわたるやりとりがあるが、その後の経緯は不明である。 しかし、寛永十八年(一六四一)、ついに大石寺は将軍家光から朱印状を受け、受布施を甘受してしまったのである。十七世日精上人の時代であった。」26) と記している。 日(にっ)躰(たい)文書は京都要法寺から西山本門寺へ宛てた文書であるから、要法寺と富士五山は密接に連絡をとっていたと思われる。さて、その後も幕府による不受不施派への弾圧は続く。寛文5(1665)年幕府は不受不施寺に対し寺領供養の手形(幕府から寺領を与えられることは寺にとってはその供養を受けることである)の提出を求め手形提出を拒んだ松戸本土寺日述(にちじゅつ)などを流罪にしている。こうしてみると文禄4(1595)年から始まった不受不施論議は当初京都で発生し京都妙覚寺の日奥の流罪で一旦は収束し日奥の赦免とともに再燃して関東へ飛び火したことがわかる。不受不施論議で日蓮宗内の議論が真っ二つになっていた時期と上述の「飛び漫荼羅」などの偽筆御本尊が偽作された時期が一致するのである。
これに関連するかどうか分からないが、元和9(1623)年に京都要法寺の本山21世日体(にったい)師が佐渡に渡海、寛永3(1626)年に京都要法寺末の本典寺を建立している27) のが注目される。京都要法寺系の本典寺と塚原根本寺 ・・・ この両寺が佐渡で本家争いをした可能性があると考える。「飛び漫荼羅」が飛来したという伝説は寛永13(1636)年(一説では正保4(1647)年)であるから時期的にも合致するのである。この日体上人であるが、『富士年表』の「富士諸山歴代表」 28) の要法寺の項には「27 日体 真如院 慶安4(引用者注:1651年).11.14.寂、67歳」となっている。本典寺を建立した日体上人と京都要法寺第27世の日体上人は寂年月日が同じであるから同一人物である。田中圭一氏の 『日蓮と佐渡』 によれば、「日体上人は慶安四年十一月二十日遷化」29) とあり、遷化日が異なるが、『日蓮宗寺院大鑑』 の「本典寺」の項には、「1.円乗院 日体 慶安4・11・14(1651) 67才」30) とあることから、『日蓮と佐渡』 の記載が誤記と考える。なお、『日蓮宗寺院大鑑』の「要法寺」の項には、「21.真如院 日体 慶安4・11・14(1651) 67才」31) とある。『富士年表』では日体上人を京都要法寺第27世としているが、これは、『富士年表』が京都要法寺における上行院と住本寺の並列時代の法主を列記しているためである。
なお日(にっ)躰(たい)文書の日躰師と京都要法寺27世日体上人が同一人物であるかどうかは不明である。
私は、本来「飛び漫荼羅」は佐渡の本典寺に所蔵されるべく偽作されたのではないかと思っている。もちろん根本寺への対抗のためである。不受不施論議の最中の本家争い、これが偽作御本尊が作成された原因ではないかと思うのである。

6.「飛び漫荼羅」の偽作過程
次は偽作過程を考察しよう。漫荼羅は堂内の香の燻煙で、特に上側の表面が黒くなっている場合がある。中尾堯氏は、「灯明と香の煙は、それらが発する熱によって起こる上昇気流に乗り、お曼荼羅の面に沿って上へ上と昇っていく。やがて煙はお曼荼羅の上部にただようこととなり、本紙の上部が変質して紙本来のネバリを失ってモロくなってしまう。日蓮聖人のお曼荼羅は、「南無」のあたりが特にひどく荒れている」32) としている。

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確かに中尾氏も引用している蓮祖御本尊の安46は「南無」のあたりの痛みがひどい。 ただ他の御本尊写真をみる限り、「南無」のあたりが痛んでいるのはむしろ例外的で、実際には興師御本尊No.6, No.7のように漫荼羅の上部、とくにその左右部が黒ずんでいる例が多い。 これは香による煙の流れを考えれば容易に理解できるだろう。上部から少し下の部位にある「南無」の箇所は煙がただよった時に偏って集中し難い場所のはずだ。そのため「飛び漫荼羅」のように「南無妙」の辺りが集中的に黒ずんでいるのは人為的な作為を感じる。漫荼羅の偽作過程では"時代付け" をしてもっともらしくするために、煙で燻(いぶ)したり、直射日光にあてたりしたのであろう。筆者の想像であるが、仙台で偽作されている最中に木の枝で乾(ほ)していた時、たまたま通りかかった伊達家の家臣に発見されてしまい、もちろん「漫荼羅の偽作中である」 と言えるはずがなく、「仏眼寺にあった漫荼羅が飛来した」 とでも言いつくろったのではないか。そのため伊達家の家臣がかえって重宝がって伊達家の什宝に仕立てられてしまったというようなところが真相ではなかろうか。いずれにせよこのような偽筆御本尊が仙台にあるというのは動機付けに乏しい。では何故仏眼寺で偽作がなされたのであろうか。大石寺の「第三祖日目上人の出られた新田家が領有していた宮城県登米郡に、日目上人開創の本行寺・上行寺・妙教寺があり」33) 興師の御本尊が容易に閲覧できたためではないか。天明6(1786)年の『江戸幕府寺院本末帳集成』 では、上行寺は富士大石寺の末寺34) であり仏眼寺は京都要法寺の末寺35) (当時)となっているが、大石寺第15世日昌(にっしょう)上人から第23世日(にっ)啓(けい)上人(在位1596〜1692年)までは京都要法寺出身である。大石寺で京都要法寺出身の法主が続いた期間と上述の「飛び漫荼羅」などの偽筆御本尊が偽作された時期がやはり一致するのも興味深い。この期間は大石寺と要法寺は両山一寺と考えてよいはずで、当然仏眼寺と上行寺間で交流があったろう。両寺は地図上の距離で50Kmほどである。『宮城縣史』 によれば、上行寺は弘安6(1283)年の創建36) であり、なにより上行寺など東北地方の寺院は興師の御本尊を所蔵しているのである。『奥人 第3
号』 の「御本尊目録」37) によれば妙教寺は14幅、上行寺には10幅の興師御本尊を所蔵しており、まさに宝庫といえる。京都要法寺の末寺である仏眼寺も近く、かつ京都などから離れた地方であり京都要法寺の関係者が作業するにはうってつけの場所であったろう。
 他の偽作御本尊は蓮祖の御本尊として作成されているが、「飛び漫荼羅」は興師の筆に蓮祖の花押という極めて特異的な特徴を有する。偽作者が興師の正統性を主張したいがためのものだが、これは身延山久遠寺に曾ってあった「真題目御漫荼羅」を真似たものではなかろうか。

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この御本尊は弘安4年11月に認められたもので、四条金吾殿筆、梵字御判は高祖(引用者注:蓮祖)38) という。 残念ながら原本は明治8年の身延大火の際に焼失し、遠沾院(えんてんいん)日亨師の臨写が残されている。
 原本が焼失しているので、真偽判定は難しいが、少なくともかかる御本尊の存在が関係した可能性はあるといえよう。

7.おわりに
 
 吉村絵美留(えみいる)氏は「贋作(がんさく)というのは一見してどうもいやらしい、品のない印象を受けることが多い」39) と指摘している。本物の持つ躍動感に欠け、偽作者の腐った心根が見え隠れするためである。それを称してか古美術業界では贋作を目にした時「腹に入らない」40) というそうである。贋作を目にしたときにどうにもしっくりこない感じをいう表現である。筆者には仏眼寺蔵の「飛び漫荼羅」はどうも「腹に入らない」のである。同寺蔵の「文永11年5月16日御本尊」と「弘安3年6月日御本尊」も「腹に入らない」。 胡散臭(うさんくさ)さだけが目についてしまう。それに対して蓮祖のご真筆御本尊は躍動感にあふれ生きる喜びを表したようで素晴らしい。蓮祖御本尊研究の醍醐味はここにある。

 本稿では仏眼寺蔵の「飛び漫荼羅」が偽筆であり、興師御本尊No.7を基に作成されたということを種々論証した。諸尊の配座を統計学的に検証し、偏差値分析した結果からも興師御本尊No.7を基に作成されたということを補証できた。「飛び漫荼羅」が偽筆であり、興師御本尊No.7を基に作成されたという結論はまず揺(ゆ)るぎないものであろう。「飛び漫荼羅」が偽作された背景については多分に筆者の推定や想像の部分があることをご寛容願いたい。

 いかなる理由があろうとも偽筆御本尊とその作者を絶対に許すことはできない。筆者は市井(しせい)の一信徒である。学生時代は化学を専攻したエンジニアの端くれだ。立正大学などで勉強したわけではないし、寺院関係者でもない。日蓮宗学ではいわば素人(しろうと)である。もちろん蓮祖や興師の御本尊は独学で勉強はしたが、所詮アマチュアの域を出るものではないだろう。その素人ですらちょっと調べれば偽筆とわかるのが「飛び漫荼羅」である。このようなものを "真筆だ"、"重宝だ" といって騒いでいたプロの宗教家たちはいったい何者なのであろうか。恥ずかしくないのだろうか。金儲けのためには何をやってもよいのであろうか。 故意か過失かは別にして詐欺行為に等しいことを自覚してもらいたい。すでに鬼籍(きせき)に入った人を含め、猛省(もうせい)していただきたいものである。



<引用文献>

1)堀日亨編 『富士宗学要集 第八巻 史料類聚〔1〕』 昭和53年、創価学会、207頁
2)『仙台市史 第六巻』 昭和50年復刻版(初版昭和27年、仙臺市役所)、万葉堂書店、208頁
3)『仙台市史 第七巻』 昭和50年復刻版(初版昭和28年、仙臺市役所)、万葉堂書店、452頁
4)『奥人(全)』 平成13年覆刻版、興門資料刊行会、24頁
5)『日蓮正宗 富士年表』 昭和56年、富士学林、13頁
6)堀日亨『富士日興上人詳伝』 昭和38年、創価学会、16頁
7)『日蓮正宗聖典』 昭和53年再版(昭和27年初版)、聖典刊行会、613頁
8)堀日亨編 『富士宗学要集 第五巻 宗史部』 昭和53年、創価学会、154頁
9)堀日亨編 『富士宗学要集 第十巻 疏釈部〔2〕』 昭和54年、創価学会、8頁
10)松本佐一郎 『富士門徒の沿革と教義』 昭和54年覆刻第1刷(初版昭和43年)、大成出版社、208頁
11)同書、220頁
12)堀日亨編 『富士宗学要集 第八巻 史料類聚〔1〕』 昭和53年、創価学会、177頁〜226頁
13)山中喜八著作選集T『日蓮聖人真蹟の世界(上)』 平成4年、雄山閣出版、25頁
14)『日興上人御本尊集』 平成8年、興風談所、372頁
15)同書、388頁
16)『興風 第11号』 平成9年、興風談所、372頁
17)山川智応 『本門本尊論』 昭和48年、淨妙全集刊行会、212頁
18)松本佐一郎 『富士門徒の沿革と教義』 昭和54年覆刻第1刷(昭和43年初版)、大成出版社、70頁
19)中尾堯 編 『日蓮聖人事蹟事典』 昭和56年、雄山閣出版、67頁
20)同書、70頁
21)田中圭一 『佐渡歴史文化シリーズU 日蓮と佐渡』 昭和46年初版、中村書店、78頁
22)同書、79頁
23)堀日亨編 『富士宗学要集 第八巻 史料類聚〔1〕』 昭和53年、創価学会、419頁
24)『頂妙寺文書・京都十六本山会合用書類 二』 昭和62年、大塚工藝社、63頁
25)堀日亨編 『富士宗学要集 第八巻 史料類聚〔1〕』 昭和53年、創価学会、415頁
26)小林正博 『宗門問題を考える』 平成4年初版第2刷(平成3年初版第1刷)、第三文明社、110頁
27)中尾堯 編 『日蓮聖人事蹟事典』 昭和56年、雄山閣出版、342頁
28)『日蓮正宗 富士年表』 昭和56年、富士学林、483頁
29)田中圭一 『佐渡歴史文化シリーズU 日蓮と佐渡』 昭和46年初版、中村書店、342頁
田中圭一 『新版 日蓮と佐渡』 2004年初版、平安出版、315頁
30)『日蓮宗寺院大鑑』 昭和56年、大本山 池上本門寺、632頁
31)同書、1120頁
32)中尾堯 『ご真蹟にふれる』 平成6年第1刷、日蓮宗新聞社、46頁
33)小林正博 『宗門問題を考える』 平成4年初版第2刷(平成3年初版第1刷)、第三文明社、173頁
34)『江戸幕府寺院本末帳集成 中』 昭和56年第1版第1刷、雄山閣出版、2745頁
35)同書、2752頁
36)『宮城縣史 1(古代・中世史)』 昭和32年、宮城縣史刊行会、291頁
37)『奥人(全)』 平成13年覆刻版、興門資料刊行会、第3号17頁
38)『御本尊鑑 遠沾院日亨』 昭和45年、大塚工藝社、64頁
39)吉村絵美留 『修復家だけが知る名画の真実』 2004年第1刷、青春出版社、144頁
40)中島誠之助 『骨董の真贋』 1996年初版、二見書房、29頁

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