富木常忍に授与された御本尊について

2006.5.28. 彰往考来

 

本論文は平成121028日に立正大学において開催された、「第53回日蓮宗教学研究発表大会」での筆者発表内容を加筆修正したものである。

 

 

1.はじめに

富木常忍は日蓮在世中の有力な檀越の一人であり、晩年は出家して日常と名乗り中山門流の開祖となったことで知られる。富木常忍が事実上の開祖となった中山法華経寺には莫大な量の日蓮真筆が保管されているが、日蓮真筆の本尊は所蔵していない。文献によれば中山法華経寺には古来8〜10幅の日蓮による本尊が伝わっており、明治32年5月の盗難事件によりその全てを失ったものである。1)

門下によって書写された本尊は日蓮から授与された本尊が大きく影響していることは間違いない。このような例に日弁の本尊がある。日弁の本尊は鷲巣鷲山寺(永仁31295年)と高萩願成寺(正応21289年頃?)に現存している。2)  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


次の表−1及び図−1,2に示した配座から解るように日弁書写本尊の諸尊勧請は弘安2年4月に日弁に授与された日蓮の本尊の配座とほぼ一致しており、違いは「転輪聖玉」が左右逆の配座であること、「阿闍世大玉」が「阿闍世玉」となっていること、及び日弁書写本尊には「南無日蓮聖人」が観請されていることである。

 

さて、富木常忍(日常)は晩年自ら本尊を書写しており、京都本法寺には永仁31295年付け本尊が現存し3)、中山法華経寺には永仁51297年付け本尊が現存しており4)、それぞれ写真公開されている。(以下、それぞれ「永仁3年本尊」、「永仁5年本尊」という)

 

 

 

 

 

 

こうしてみると、日常書写の「永仁3年本尊」と「永仁5年本尊」の配座は大差ないことが解る。「永仁5年本尊」が「永仁3年本尊」と異なる点は「南無迦葉尊者ホ」(「ホ」は「等」の略字)が「南無迦葉尊者」となっていること、「南無文殊師利井」が「南無文殊師利菩薩」となっていること、「大釈提桓因玉」が「釈提桓因玉」となっていることの3箇所で、「永仁5年本尊」には「佛滅度後二千二百二十(余年)間一閻浮提内未曾有之大(漫荼羅也)」(注:( )内は欠字を補筆した。なお通常日蓮本尊で讃文の「之」の位置は「一閻浮提内未曾有大漫荼羅也」である)との讃文があるのに対して、「永仁3年本尊」には同讃文がない。また「永仁3年本尊」では「南無法主大師」とあるが、「永仁5年本尊」では「南無法主聖人」となっている。なお、「永仁5年本尊」で「南無楽妙大師」とあるのは「南無妙楽大師」の誤記であろう。

日常の書写本尊では「大毘沙門天玉」などの「毘」字を実際は田偏に比〔田*比〕と書かれているが、この字は「毘」字の異体(親字と字形は異なるが字音も意味も同じ)でパソコンに字体がないため配座図等では「毘」字とした。これは「峰」字と「峯」字における山偏の位置と同じ関係である。

 

本論文の目的は、門下書写の本尊は日蓮の図顕した本尊が基になっているという前提に基づき、日常書写本尊の諸尊の配座を統計学的に分析し、曾存した富木常忍に授与された日蓮の本尊を推定するというものである。

2.分析方法

本研究では下記手順に基づき統計学的分析を実施し日蓮本尊と日常本尊を比較研究した。

 

@     富木常忍に授与された日蓮本尊(以下、「日蓮原本」という)の顕示年代を京都本法寺蔵の「永仁3年本尊」の配座等から推定する。

A     顕示年代近傍の日蓮本尊と永仁3年本尊の配座を比較する。

B     観請された諸尊の偏差値を決め合計をとる。

C     偏差値の近い日蓮本尊と比較考証する。

D     偏差値を補正する。

E     再度、偏差値の近い日蓮本尊と比較考証する。

F     結論 … 日蓮原本の配座を推定する。

 

ここで本尊偏差値の決定は本研究のポイントとなるもので筆者が独自に考案したものである。ここで使用する“偏差”とは統計学で通常使用されるもので、基準値(または平均値)からの偏り(ズレ)を意味し偏差値はその値である。

まず基準となる本尊を定め、比較対象の本尊に観請された諸尊の偏差値を下記割付けに基づき決定する。次に偏差値の合計を求め、その数値の大小をもって比較考証するという処方である。統計学的には試料数が20以上であればかなり信頼できる数値が得られる。宗祖の御本尊では諸尊の数が20以上はあるので分析対象になりうる。

本研究では片側偏差を用いているので偏差値合計の数値が小さいほど基準とした本尊に近く、全く同じであれば偏差値合計は0になる。逆に偏差値合計の値が大きいほど基準とした本尊とかけ離れていることになる。経験的には偏差値合計が20以下であれば関連性について議論の対象には成り得るが、好ましくは10以下、さらに好ましくは5以下でなければ関連性があるとは言い難い。また20を越えると関連性は極めて薄い。

まず本研究での偏差値の割付けは以下のとおりである。

 

偏差 0  … 基準と同一諸尊が同一側に配座

偏差0.5 … 基準と同一諸尊が反対側に配座

偏差1.0 … 表記の若干異なる諸尊が同一側に配座

偏差1.5 … 表記の若干異なる諸尊が反対側に配座

偏差2.0 … 表記の全く異なる諸尊が同一側に配座

偏差2.5 … 表記の全く異なる諸尊が反対側に配座

偏差3.0 … 基準に配座の諸尊がない、もしくは基準にない諸尊がある

 

ここで「表記の若干異なる」とは、「大」の有無、「南無」の有無、「等」の有無、「菩薩」と「井」(「菩薩」の略字は「草冠にサ」であるがパソコンに字体がないので「井」と表記する)の違いなどが該当する。また「表記の全く異なる」とは、「釈提桓因玉」と「帝釈天玉」や「大因陀羅玉」、「大増長天玉」と「大昆楼勒叉天玉」など意味が同じで表記が異なる諸尊が該当する。

これに基づき各諸尊の偏差値を決定する。例えば基準の本尊に「釈提桓因玉」が向かって左に配座され対象の御本尊に「帝釈天玉」が向かって左に配座されていれば、表記の全く異なる諸尊が同一側に配座しているので偏差値は2.0となる。こうして求めた諸尊の偏差値を合計することにより比較対象本尊の偏差値合計が求まる。但し、この偏差値はあくまで基準にした本尊との偏差であって比較対象本尊自体の絶対値ではない。基準の本尊が変われば当然ながら偏差値合計も変わる。臨写本尊のように一字一句まで同じであれば偏差値合計は0になるし、もし誤記があればその分偏差値が大きくなる。この作業は一見煩わしそうであるが、パソコンでエクセルのような表計算ソフトを用いて諸尊の配座表さえ作ってしまえば後の計算はそれほど苦にはならない。

基準と同一諸尊が反対側に配座している場合と表記の若干異なる諸尊が同一側に配座している場合とではどちらの偏差が大きいかは議論のあるところであるが、日弁本尊での例を参考として決定した。つまり同一諸尊が反対側にある本尊は書写の際に左右の諸尊数を同じにしてバランスをとったためと考えられるので、基準と同一諸尊が反対側に配座している場合をより少ない偏差にした。また左右で対になった諸尊が左右逆に配座される場合があるので、同一諸尊が反対側にある本尊は偏差値を表記の若干異なる諸尊が同一側に配座している場合の半分の値にしないと釣り合いがとれない。基準に配座の諸尊がない場合では書写の際に書き落としがある場合が含まれる。書き落としでは偏差3.0は大きすぎるきらいがあるが、対象側の御本尊を基準にして分析すると丁度逆になり基準の本尊にない諸尊があるということになる。通常の場合と基準を逆にして反対側からみたときの偏差値合計を計算して考察する時もあるので、どちらからみても同じ偏差値になるようにするため書き落としの可能性は考慮しなかった。

 

3.「日蓮原本」の図顕年代の推定

 「日蓮原本」の図顕年代の推定は日常書写の「永仁3年本尊」が解析できるものとしては一番古い時代のもの、言い換えれば一番日蓮の時代に近いので「永仁3年本尊」を主として用い「永仁5年本尊」を補助として用いた。まず図-,4に示した日常書写本尊の配座図から明らかなように、日常書写本尊の書写形式は分身諸仏の配座がみられない弘安式であることから、「日蓮原本」の図顕年代は弘安元年から5年に限定される。次に日常書写本尊には「大明星天玉」の勧請がみられることから、弘安元年7月以後の可能性が高いことが解る。これは山中喜八の『日蓮聖人曼荼羅図集』では「明星天王の初出は、弘安元年8月の御本尊から」(要旨)5)となっているが、寺尾英智の日等臨写本尊の研究で「弘安元年7月16日曼荼羅には「大明星天王」と勧請されており、明星天王の初出を早めるもの」6)とあるので、弘安元年7月以後としたものである。また日常書写本尊には「提婆達多」の勧請がない。山中の解説では「提婆達多」は「弘安2年2月の御本尊から再現」(要旨)7)とのことから弘安2年1月以前となろう。さらには「阿闍世玉」の配座もない。山中の解説では「弘安元年8月に至って「阿闍世王」再現」7)とあり、やはり「日蓮原本」の図顕は弘安元年7月以前となる。

 これらの条件を満足するのは弘安元年7月以外にはなく、ピンポイントで「日蓮原本」の図顕時期が同定できたと考える。

 

4.分析対象の本尊

 では中山法華経寺関連の日蓮本尊で弘安元年7月に図顕されたものがあるのであろうか。寺尾英智によると中山法華経寺に伝わった日蓮の本尊は合計10幅であり、弘安元年7月16日付けの本尊が3幅旧蔵されていたのである。8) これらは「同日三幅」と呼ばれ曾存の本尊であるが、そのうち1幅は京都頂妙寺の真如院日等(にっとう:京都頂妙寺20世、中山法華経寺56世)により臨写された本尊がある。9)

 

 故にこの日等臨写本を分析対象にするが、それ以外に立正安国会の『御本尊集目録』に入集している弘安元年7月前後の日蓮本尊(第4855番本尊)8幅、弘安4年9月の俗日常授与本尊(第110番本尊)1幅、の合計で日蓮本尊10幅(日等臨写本1幅を含む)を分析対象にする。特に第110番本尊は授与者に俗日常との記載があるので別人説を含めて検証するものである。

分析の基準は日常書写の「永仁3年本尊」で「永仁5年本尊」との差も解析した。併せて中山2世日高本尊5幅、中山3世日祐本尊5幅も参考として検証した。

 

5.分析作業

まず分析対象御本尊10幅の諸尊の配座を表−2に整理した。日常書写の「永仁3年本尊」は基準のため一番左端に配置した。諸尊配座のうち左右を明確にするために向かって左側に配座した諸尊を黒抜き(●や▲)で、右側に配座した諸尊を白抜き(○や△)で示した。各諸尊の表示は○、△、▽、□などの記号を用いて細かく分類した。次に表−2を基に「永仁3年本尊」を基準(偏差値0)として各々の諸尊の偏差値を上記割付けに従って求め各本尊ごとに偏差値合計を求めて表−3とした。この結果、分析した10幅の日蓮本尊は18.054.0の偏差値を有することが解った。日常書写の「永仁3年本尊」で「永仁5年本尊」では偏差値合計も5.0で差は少なく、その差も表記の若干異なる諸尊の影響のみであるからこの2幅は相関関係があると判断できる。同様に日常書写の「永仁3年本尊」を基準として、中山法華経寺2世日高の本尊5幅と同寺3世日祐の本尊5幅について諸尊の配座を表―4に示し、偏差値合計を求め表−5とした。この結果、分析した日高、日祐の本尊10幅は8.025.5の偏差値を有することが解った。

 

6.結果の解析

 表−3と表−5の結果は意外に大きい偏差値合計である。先に例示した日弁の本尊では偏差値合計が1.5であったのと比べるとかなりの開きがある。この結果からは、「永仁3年本尊」は調査した日蓮の本尊10幅を原本にしたとは言い難く、日高、日祐の本尊10幅も日常の本尊を原本にしたとは言い難い。表−2をよくみると「永仁3年本尊」はかなり他の本尊と比べ独特の諸尊の配座がなされており、このまま偏差値合計をもって判断するには無理があると考えられる。そこで「永仁3年本尊」の配座を他の本尊との比較考証から検討し、適切な補正を行うことにより「日蓮原本」を推測してみることにした。

7.結果の補正検討

7−1 「井」字(「菩薩」の略字)について

 「日蓮原本」は、迹化の菩薩(普賢、文殊師利、弥勒、薬王)と「八幡大菩薩」の「菩薩」が「井」と書かれていた可能性が高い。その理由は下記3点である。

 @ 「永仁3年本尊」は文殊師利菩薩のみ「井」字であるが、これは他の日蓮本尊には見当たらない。

A 分析した10幅の日蓮本尊のうち、6幅が「井」字である。(1幅は四菩薩の配座なし)

B 「八幡大菩薩」は日高本尊では5幅中4幅、日祐本尊では5幅全部が「井」字である。

特に「八幡大菩薩」は天照太神と対で配座されるために「八幡大井」と認(したた)めることにより字数が天照太神と同じ4文字になるので配置がすっきりする。それ故に多様されたのではないかと考える。「永仁3年本尊」では「文殊師利菩薩」のみ「井」字であるが、このような配座は分析対象以外の日蓮本尊にも見当たらず全く特異な配座である。逆にこのことから「日蓮原本」は、迹化の菩薩(普賢、文殊師利、弥勒、薬王)と「八幡大菩薩」の「菩薩」が「井」と書かれており、「永仁3年本尊」ではその形跡が「文殊師利菩薩」に残っているのではなかろうか。

故に、「日蓮原本」には、迹化の四菩薩と「八幡大菩薩」の「菩薩」が「井」と書かれていたと補正する。

 

7−2 「大釈提桓因玉」と「大六天魔王」について

 「日蓮原本」は向って左に「大釈提桓因玉」、右に「大六天魔王」が配座され、「永仁3年本尊」とは逆である可能性が高い。その理由は分析した10幅の日蓮本尊全てが「永仁3年本尊」とは逆にこの二尊が配座されているためである。

参考までに分析した10幅の日高・日祐本尊も同様の傾向で、「大釈提桓因玉」では日高・日祐の本尊10全部が「永仁3年本尊」と逆に配座し、「大六天魔王」では配座そのものがない4幅を除いた6幅全て「永仁3年本尊」と逆に配座している。なお、この二尊は「永仁3年本尊」と「永仁5年本尊」とでは同じ側の配置である。

 なお、「釈提桓因玉」は種々の表現があるが、「大」字を頭に冠した例が日蓮の第55番本尊にあるので「大」字の補正はしなかったが、補正の必要を否定しきれない。 55番本尊は富木常忍(日常)の夫人であった妙常に授与された日蓮の本尊であり、「永仁3年本尊」など日常書写本尊に少なからず影響を与えたであろう。少なくとも富木常忍自身が55番本尊を観ていることは間違いと考える。後述するように「大阿修羅玉」では「日蓮原本」は「大」字を冠していなかったと判断されるので「大釈提桓因玉」も同様である可能性はある。

 また「日蓮原本」の図顕年代の推定から「永仁3年本尊」と同時期の図顕と考えられる弘安元(1278)年7月16日付け中山旧蔵(曾存)の日等臨写本(写真-6)では「釈提桓因玉」を「大因陀羅玉」と勧請され極めて特異的である。現存日蓮真筆本尊で「大因陀羅玉」と勧請されるのは建治2(1276)年卯4月の第34番本尊(京都本圀寺蔵)、第35番本尊(茂原藻原寺蔵)の2幅だけである。もしこの中山旧蔵の本尊が「永仁3年本尊」の原本もしくは原本に近いものであったとするなら、「永仁3年本尊」の書写の際に55番本尊などを参照して「大釈提桓因玉」に変更されたものと考える。

故に、「日蓮原本」では向って左に「大釈提桓因玉」、右に「大六天魔王」が配座されていたと取りあえず補正する。

 

7−3 「大廣目天玉」と「大増長天玉」について

 通常、日蓮の本尊では二天王が漢名のときは「大廣目天玉」は向って右下、「大増長天玉」は向って左下に位置し例外はない。しかしながら二天王が梵名になった場合、すなわち「大昆楼博叉天玉」だいびるはくしゃてんのう:漢名の「大廣目天玉」)は向って左下、「大昆楼勒叉天玉」だいびるろくしゃてんのう:漢名の「大増長天玉」)は向って右下に位置し、梵漢名で逆の配座になっている。5) この理由は不明であるが山中喜八は「甚だ冒涜の至りながら、或は勒叉・博叉の訳語を錯したまえるにはあらざるやの疑念も生じてくるのである」10と記述している。さて日常書写の「永仁3年本尊」などでは「大廣目天玉」は向って左下、「大増長天玉」は向って右下に位置し日蓮本尊と逆になっており極めて例外的である。

 

表−6 各本尊の「大廣目天玉」と「大増長天玉」の位置

日蓮本尊(漢名の場合)

日蓮本尊(梵名の場合)

日常書写本尊

大廣目天玉(右下隅)

大昆楼博叉天玉(左下隅)

大廣目天玉(左下隅)

大増長天玉(左下隅)

大昆楼勒叉天玉(右下隅)

大増長天玉(右下隅)

 

 恐らく「日蓮原本」では「大昆楼博叉天玉」(漢名の「大廣目天玉」)が向って左下、「大昆楼勒叉天玉」(漢名の「大増長天玉」)が向って右下に位置していたところ日常が「永仁3年本尊」などを書写した際、二天王の梵名を漢名に変更したが位置は変更しなかったためであると推察する。

 故に「日蓮原本」では「大昆楼博叉天玉」(漢名の「大廣目天玉」)が向って左下、「大昆楼勒叉天玉」(漢名の「大増長天玉」)が向って右下に位置していたと補正する。

 なお、日高本尊5幅、日祐本尊5幅とも日常書写の「永仁3年本尊」などのようには「大廣目天玉」は向って左下、「大増長天玉」は向って右下に位置した例はない。このことは、日高、日祐とも原本には日常書写本尊を使用していないことを示唆する。日高は太田乗明の子息と伝えられており、11 このことから日高が書写した本尊の原本は日常書写本尊ではなく例えば太田乗明に授与された日蓮本尊(中山曾存)であった可能性が出てくる。

 

7−4 「大阿修羅玉」の「大」字について

 今回分析した20幅の本尊(日蓮10幅、日高5幅、日祐5幅)のうち「阿修羅玉」の配座がみられる14幅(日蓮6幅、日高3幅、日祐5幅)全て“阿修羅玉”に「大」字がない。他の日蓮本尊でも「阿修羅玉」に「大」字を冠した例はないので、「永仁3年本尊」などの「日蓮原本」には「阿修羅玉」と勧請されていたと補正する。

 

7−5 「転輪聖玉」について

 日常の「永仁3年本尊」などでは「転輪聖玉」がみられないが、「日蓮原本」に「転輪聖玉」が勧請されていたかどうかはっきりしない。すなわち今回分析した日蓮本尊10幅のうち6幅に「転輪聖玉」が勧請されていて4幅には勧請されていない。また 日常の「永仁3年本尊」などと時期的に近い日高本尊では5幅中4幅で「転輪聖玉」が勧請されておらず、反対に日祐本尊では5幅全部に「転輪聖玉」が勧請されている。日高本尊と日祐本尊の差はそれぞれの原本が異なるためと考えざるを得ないが、結論として日蓮本尊との比較考証結果から補正ができる内容ではないので「日蓮原本」には「転輪聖玉」が勧請されていなかったとする。補正はとりあえず行わない。

 

7−6 「南無龍樹菩薩」について

 日常の「永仁3年本尊」などでは「南無龍樹菩薩」がみられず、代わりに日蓮を表わす「南無法主大師」もしくは「南無法主聖人」の勧請がみられる。分析した日蓮本尊のうち8幅に龍樹菩薩の勧請があるので、「日蓮原本」では「南無龍樹菩薩」が勧請されていた可能性が強いと考える。さらに8幅中5幅の「菩薩」字が「井」字であるので「日蓮原本」では「南無龍樹井」ではなかったかと思われる。分析した日蓮本尊のうち2幅に龍樹菩薩の配座がないが、この2幅(第49番本尊、第110番本尊)は偏差値合計が極めて大きいので解析対象外としてよかろう。よって日常の「永仁3年本尊」などでは「南無龍樹菩薩」を抜いて、代わりに日蓮を勧請したのではないかと推測する。また分析した日高、日祐の本尊ではやはり「南無龍樹菩薩」がみられず日高本尊では日常の「永仁5年本尊」と同じ「南無法主聖人」が、日祐本尊では日高の本尊と似た「南無法主大聖人」が勧請されており、これは日常の「永仁3年本尊」などの書き方を履修したものといえるだろう。

 従って「日蓮原本」では「南無龍樹井」が勧請されていたと補正する。

 

 以上で比較考証による「日蓮原本」への補正をひとまず終了し、補正結果を基に偏差値を計算した結果を表‐7に示す。次章では結果をまとめて検証する。

8.補正結果の解析

 日常の「永仁3年本尊」を基準として各諸尊の偏差値補正前後での偏差値合計を表‐9にまとめた。

 

表‐9 日常の「永仁3年本尊」を基準とした偏差値合計のまとめ

本  

顕 示 年 月

被授与者

偏差値合計

(補正前)

偏差値合計

(補正後)

永仁3年本尊

永仁3年12

 

0

0

永仁5年本尊

永仁5年6月

 

5.0

5.0

48番本尊

弘安元年4月

優婆塞日専

22.0

18.5

49番本尊

弘安元年7月

 

54.0

53.0

50番本尊

弘安元年7月

沙門日門

19.5

15.0

51番本尊

弘安元年7月

 

19.5

15.0

52番本尊

弘安元年7月

 

18.0

13.5

日等臨写本尊

弘安元年7月

 

21.5

9.0

53番本尊

弘安元年8月

日頂上人

30.0

26.5

54番本尊

弘安元年8月

 

27.0

24.5

55番本尊

弘安元年9月?

日澄母尼

24.5

13.0

110番本尊

弘安4年9月

俗日常

36.0

43.0

 

表‐9の中で第49番本尊と第110番本尊は偏差値合計が極端に大きい。偏差値合計が20を越えるとまず基準と関係ないと判断できるので、この2幅は検証から除外できる。特に第110番本尊は俗日常に授与された本尊で俗日常=富木常忍説がある。例えば高木豊は「日常の名はすでに弘安四年九月に図顕された曼荼羅(引用者注:第110番本尊)の授与書に「俗日常」と見えるのがそれではなかろうかと考えられる。 (中略) (高木豊)」12とする俗日常=富木常忍説である。しかしながら『日蓮教団全史上』は「既に「非俗非道、禿居士」(忘持経事、P1150)といわれ、行為を賞讃して「常忍上人」(同)といわれた常忍を、その後五年(引用者注:「その五年後」?)の弘安四年に「俗日常」と、しかも厳粛な曼荼羅に書かれようとは思われない。本曼荼羅の授与者俗日常は当然別人でなければならぬ」13と記述していて別人説であり、本研究での偏差値の結果は別人説を強く支持するものである。富木常忍(日常)の『常修院本尊聖教事』では「妙法蓮華經漫陀羅一鋪」とある14ので富木常忍が授与された本尊は一幅であり弘安元年7月の「日蓮原本」以外に富木常忍に授与された本尊があったとは考え難い。

表‐9の中で補正後の偏差値合計が一番小さいのは日等臨写本で9.0であり、次が第55番本尊の12.5であるので日等臨写本についてについて若干考察したい。

日等臨写本を含む同日三幅は誰に授与されたのであろうか?これを解く鍵は中山法華経寺の宝物目録にある。中山三世の日祐による『本尊聖教録』(以下、「日祐目録」という)には中山法華経寺の前身である法華・本妙両寺に伝わった本尊が記載されている。康永2(1343)年の「日祐目録」は『日蓮宗宗學全書 第一巻 上聖部』(昭和43年第2版(初版昭和34年)、山喜房仏書林)に収録されているが、『日蓮宗宗學全書』のものは錯簡がある。寺尾英智がそれを修正しているのでここでは原文に忠実と考えられる修正版を引用する。

「両寺法花本妙本尊聖教録

 御自筆大曼陀羅一鋪

 (中略)

     已上法花寺 法忍奉入御自筆三枚本尊大方殿ニ入御千田

 

御自筆大曼陀羅一鋪 ― 太田入道乗明当身給

同一鋪 太田尼経女当身給 ― 日胤阿闍梨ニ譲与之

同一鋪 法忍奉入 奥州ヘ奉入了

同一鋪 一枚 向田入道

同一鋪 一枚 六浦角後家奉入日仁ニ授与之

同一鋪 十一枚

同一鋪 於六浦奉入

同一鋪 別当大夫奉入弁公ニ授与

(中略)

    已上本妙寺

    (以下略)                   15)

 

 「日祐目録」では法花(法華)寺分には「御自筆大曼陀羅一鋪」とある。図顕日や授与者は記載がないが、法華寺は富木常忍の創建であるからこの一幅は富木常忍(日常)に授与された本稿での「日蓮原本」であろう。また日高の創建である本妙寺には8幅の「御自筆大曼陀羅」が所蔵されていたことになる。日高は太田乗明夫妻の子息であることもあり、8幅のうち1幅は「太田入道乗明当身給」とあり、別の1幅には「太田尼経女当身給」とあって太田夫妻に授与された本尊2幅が所蔵されていたことが解る。

 さらに天正廿(1592)年の中山十一世日典の「中山霊宝之注文」(以下、「日典目録」という)には、

 

「 中山霊宝之注文

三月廿三日現ニ拝見

申分

一 大宝塔 十一枚継也

一 大漫荼羅 十一枚継

  建治元年

一 同日三幅 三幅共ニ三枚継

  弘安元年七月十六日

  一幅裏書ニハ御筆ニテ直専持

  法花経行者日本国日蓮

  此授与沙弥常日トアリ

  又一幅ノウラニ此授与沙弥乗日トアリ

  又一幅ニソレヘ表ノ授与経女与之トアリ (引用者注:原文のママ、「又一幅ニハ表ニ授与経女之」か)

一 日家授与ノ御本尊

   三枚継 弘安二年大才己卯

一 法蓮授与 三枚継 

   弘安二年大才己卯

一 病即滅之御本尊 一枚半

   弘安元年私云是ハ堯忍妙而給フ也

一 文永十二年ノ御本尊

  (中略)

  天正廿年壬辰三月十八日

       日典在判

   私云以上此分現ニ拝見

   文禄三甲午年三月二十三日

            日通                       」16

 

とあり、8幅の本尊(大宝塔を除く)が中山法華経寺に所蔵されていたことが確認できる。「日典目録」では8幅の本尊所蔵で、「日祐目録」では合計9幅の所蔵であった。この1幅の所在は天正19年の日俒(にちごん)の「日俒御手前ニ有之御霊宝」(以下、「日俒目録」という)にある。「日俒目録」には、

 

「一 蓮華御筆三枚継17

とあり、日典が8幅、日俒が1幅で合計9幅となる。天文年間は中山法華経寺の重宝は2分割して所蔵されていたわけである。「蓮華御筆三枚継」とは「青蓮華之漫荼羅」で弘安2年6月図顕である。18

 さて、「日典目録」でには同日三幅の図顕年月日が弘安元年七月十六日であり、一幅は沙弥常日に、一幅は沙弥乗日に、一幅は経女に授与された旨の記載がある。「日典目録」で沙弥常日は富木日常(常忍)、沙弥乗日は太田乗明とすれば、一幅は経女(=太田乗明夫人)であるから「日祐目録」の内容と矛盾はない。ということは同日三幅の本尊は、法華寺に伝わった富木常忍に授与された一幅と本妙寺に伝わった太田夫妻に授与された二幅からなることになる。夫婦に二幅授与であるが、四条金吾夫妻に授与された日蓮の本尊である第71番、72番本尊のように同一時期に夫婦に授与された例はある。そうすると富木常忍夫人に授与された第55番本尊はやはり弘安元年7月の図顕であり、富木常忍と同時に授与されるべく準備されたのではなかろうか。第55番本尊が富木常忍夫人に弘安元年7月には授与されず弘安3年9月に授与された理由は定かではないが、夫人が病気のため身延山に登山できなかった(弘安元年7月に、他の3人は沙弥(剃髪していても妻子のある、在家の生活を行う者)になったのではなかろうか)というような事態があったものと推測する。

 第55番本尊は図顕時期を含め、富木常忍夫人と密接に関係している。菅原は、第55番本尊について、「日興上人の添書に「因幡國富城寂仙房日澄母尼弘安三年九月申与之」とあるように、弘安元年頃に図顕されたと推定できる本尊を、弘安三年九月に日興上人が「日澄母尼」へ申し与え添書されたものである。これは宗祖の本尊が或る期間授与されずにストックされていた例」19としている。菅原のいう「ストック」は「予め書写されていた」20という意味でいわば在庫であるが、上記ロジックから第55番本尊は菅原のいうような単純に書き貯められた本尊ではないと考える。なお、日興上人添書に「尼」とあることより、少なくとも弘安三年九月には富木常忍夫人は沙弥になっていたと判断できる。

 以上のことから、日等臨写本は同日三幅のうちの一幅で、富木常忍、太田乗明、太田夫人のいずれかに授与された本尊の臨写である可能性が極めて高まった。であるならば、日等臨写本の原本=「日蓮原本」(富木常忍に授与された本尊)である可能性もある。そこで、再度、日等臨写本の原本=「日蓮原本」ではないかという観点から、上記補正後に日等臨写本の配座と異なる箇所を見直し、全ての箇所が再補正できれば諸尊の配座は日等臨写本=日常の「永仁3年本尊」であるということになり、日等臨写本は富木常忍に授与された日蓮の本尊を臨写したものであるというひとつの仮説が成り立つ。

 補正後の「永仁3年本尊」と日等臨写本の諸尊配座相違点は下記6箇所である。

@ 「南無弥勒井」と「南無薬王井」が左右逆

A 「南無龍樹井」と「南無天台大師」が左右逆

B 「南無舎利弗尊者」と「南無舎利弗等」の違い

C 「南無迦葉尊者ホ」と「南無迦葉等」の違い

D 「大釈提桓因玉」と「大因陀羅玉」の違い

E 「転輪聖玉」の有無

 

次章でこの6箇所について主として分析した日蓮本尊10幅を見直し再補正可能か考証する。

 

9.再補正の検討

9‐1 「南無弥勒井」と「南無薬王井」が左右逆

分析した日蓮本尊10幅では、日等臨写本と富木常忍夫人に授与された第55番本尊の2幅が「南無弥勒井」と「南無薬王井」が左右逆であることに驚かされる。図顕時期が近傍の日蓮本尊で例があるということであるから、再補正可と考える。

 

-2「南無龍樹井」と「南無天台大師」が左右逆

 「南無天台大師」は分析した日蓮本尊10幅では、日等臨写本と第5355番本尊の4幅は「永仁3年本尊」と逆である。やはり図顕時期が近傍の日蓮本尊で例があるというのみならず日等臨写本と富木常忍夫人に授与された第55番本尊が逆配座であるから再補正は可能である。

 「南無龍樹井」は「永仁3年本尊」には最初から無い。これは「南無法主大師」を勧請するためと考えられるので、「南無天台大師」を逆配座にすれば必然的に「南無龍樹井」は再補正可となる。

 

-3「南無舎利弗尊者」と「南無舎利弗等」の違い

分析した日蓮本尊10幅では、やはり日等臨写本と富木常忍夫人に授与された第55番本尊の2幅が「南無舎利弗等」であることに驚かされる。再補正可と考える。

日常の「永仁3年本尊」では原本では略字であった「井」を「菩薩」と略字から本字に書き換えて勧請するなど、省略した書き方は少ない。これは富木常忍(日常)の人柄に起因するものと思われ、舎利弗尊者でも略した書き方をされなかったのではないかと考える。

 

-4「南無迦葉尊者ホ」と「南無迦葉等」の違い

やはり日等臨写本と富木常忍夫人に授与された第55番本尊の2幅が「南無迦葉尊者ホ」ではなく「南無迦葉等」であり、再補正可と考える。

 

-5「大釈提桓因玉」と「大因陀羅玉」の違い

分析した日蓮本尊10幅では、日等臨写本以外で「大因陀羅玉」とある本尊はない。分析範囲以外でも弘安期の日蓮本尊でも例がなく、建治期の第34番、35番本尊の2幅だけである。

『日蓮辞典』によれば、「「帝釈」は「釈迦提婆因陀羅」の訳、「釈提桓因」ともいう(要旨)21とある。また富木常忍夫人に授与された第55番本尊は「大釈提桓因玉」となっており、この第55番本尊を富木常忍はみていたはずである。そうすると、もし

 

大 因陀羅 玉

        ⇒ 大・釈提桓因・玉 

釈提桓因

 

とされるなら、再補正は可能となる。富木常忍は夫人に授与された第55番本尊をみていたはずで、第55番本尊を参考に「大因陀羅玉」を一般的な書き方である「釈提桓因玉」に書き変え、その際に「大」字を冠したものと推測する。なお日常の「永仁5年本尊」では「大釈提桓因玉」ではなく「釈提桓因大玉」と認められている。これは「大因陀羅玉」を「釈提桓因玉」に書き変えられていたという考えの傍証となろう。

 

-6「転輪聖玉」の有無

 日常の「永仁3年本尊」では「転輪聖玉」の配座はみられず、日等臨写本では配座している。比較した10幅の日蓮本尊では第55番本尊など4幅に配座がみられず、6幅に配座している。図顕時期が近傍の日蓮本尊で例があり、配座している本尊のほうが多いので再補正は可能と考える。なぜ「永仁3年本尊」に「転輪聖玉」の配座がないのか解らないが、あるいは第55番本尊の影響であろうか。

 

-7 再補正の確認

 再補正箇所の配座を「永仁3年本尊」、「永仁5年本尊」、日等臨写本、第55番本尊の4幅について表‐10にまとめた。

 

 

 9-1〜6の結果では6点すべて再補正の可能性ありという結果になった。これは日等臨写本の原本=「日蓮原本」であり、日等臨写本は富木常忍(日常)に授与された本尊を臨写したものであるということを意味するが、表-10に示した如く4箇所は日等臨写本と第55番本尊で異なる配座内容である。このことから「永仁3年本尊」は日等臨写本の原本以外の日蓮本尊が基となっているという可能性を捨てきれない。日蓮の本尊では図顕年月日が近傍であればよく似た配座になり、同一日では同じ相貌の場合もあるので卑怯(ひっきょう)、偏差値は近くなり、解析困難となってしまう。中山二世日高の本尊は5幅全て微妙に異なる。「南無法主聖人」が配座していることから、「永仁3年本尊」より中山法華経寺蔵である「永仁5年本尊」の影響を受けたと考えられる。中山二世日高の本尊については別の機会に考証することとしたい。

10.結論

以上の考察結果をまとめると、

@     富木常忍に授与された本尊は弘安元年7月16日の図顕である。

A     日等臨写本が富木常忍に授与された本尊を写したものである可能性が高い。

B     但し、「永仁3年本尊」で4箇所の諸尊配座が日等臨写本でなく第55番本尊と一致する。この4箇所は第55番本尊の影響を受けたものなのか、日等臨写本以外の別の原本たる本尊があったのかは解らない。

C     55番本尊は弘安元年9月の図顕ではなく、同年7月の図顕ではないか。

 

という結論となった。

 

以上

 

<参考文献>

 

1)山中喜八「房総に現存する日蓮聖人の自筆文書について」(千葉県郷土史研究連絡協議会編『日蓮 房総における宗派と文化』収録、1990年、千秋社、217

2)鷲巣鷲山寺蔵日弁本尊:山中喜八編『御門下御本尊集』昭和56年改修、立正安国会、17

高萩願成寺蔵日弁本尊:平成101998年7月26日筆者撮影写真

3)京都本法寺蔵日常本尊:山中喜八編『御門下御本尊集』昭和56年改修、立正安国会、3番

  宮崎英修監修『日蓮聖人門下歴代 大曼荼羅本尊集成』昭和61年、大塚工藝社、16

  稲田海素編『御本尊寫眞帖』大正元年、須原屋書店、などに収録されている。

4)中山法華経寺蔵日常本尊:宮崎英修監修『日蓮聖人門下歴代 大曼荼羅本尊集成』昭和61年、大塚工藝社、17

5)山中喜八『日蓮聖人真蹟の世界 上』平成4年、雄山閣出版、16

なお、『大崎學報第102号』 昭和29年、立正大学仏教学会、103頁 も同内容 

6)寺尾英智『日蓮聖人真蹟の形態と伝来』平成9年、雄山閣出版、77

7)山中喜八『日蓮聖人真蹟の世界 上』平成4年、雄山閣出版、20

なお、『大崎學報 第102号』 昭和29年、立正大学仏教学会、106頁 も同内容

8)寺尾英智『日蓮聖人真蹟の形態と伝来』平成9年、雄山閣出版、57

9)寺尾英智『日蓮聖人真蹟の形態と伝来』平成9年、雄山閣出版、78

10)山中喜八『日蓮聖人真蹟の世界上』平成4年、雄山閣出版、18

なお、『大崎學報 第102号』昭和29年、立正大学仏教学会、104頁 も同内容

11) 日蓮宗辞典刊行委員会偏『日蓮宗辞典』平成11年覆刻版(初版昭和56年)、日蓮宗新聞社、600

12)日蓮宗辞典刊行委員会偏『日蓮宗辞典』平成11年覆刻版(初版昭和56年)、日蓮宗新聞社、565

13)立正大学日蓮教学研究所(代表者 渡辺宝陽)編『日蓮教団全史 上』昭和59年第6刷(初版昭和39年)、平楽寺書店、32

14)立正大学日蓮教学研究所編『日蓮宗宗學全書 第一巻 上聖部』昭和43年第2版(初版昭和34年)、山喜房仏書林、183

15) 寺尾英智『日蓮聖人真蹟の形態と伝来』平成9年、雄山閣出版、349

16)『日蓮教学研究所紀要 14号』昭和62年、立正大学日蓮教学研究所、<史料紹介>9頁

17)同書、8頁

18)同書、37

19)菅原関道「日興上人本尊の拝考と『日興上人御本尊集』補足」(『興風 第11号』平成9年、興風談所、366頁所収)

20)同書381頁の注(118

21)宮崎英修編『日蓮辞典』(昭和57年6版(初版昭和53年)、東京堂出版、161

 

 

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